ヨガについて書かれた書物に「ヨーガスートラ」があります。
ヨーガスートラのスートラとは、「糸」という意味で、195の短文が糸を紡ぎ紐のようになっていくことからこの名がついたと言われています。4つの章、195の短文から編成されていて、ざっくり言うと「ヨガとは心の作用を止滅させること」このヨガの道のり(心の作用を止滅させる)を進むガイドラインのように書かれています。
「マットの上での運動だけではなくそれも含めて人生を明るく生きるために自分自身の心と体さらに物事の捉え方、考え方をどう整えて生きていくか」がヨガ (=心穏やかに存在する)と考えてもらえるとわかりやすいです。
ヨーガ・スートラのヤマ
「ヨーガスートラ」の中では、ヨガの道のりを8つの段階にわけて書かれている章があります。まず初めに書かれているのがヤマ(慎むこと)として5つあげられています。
「アヒンサー」について
日本語では非暴力と訳されています。他人に対して暴力は良くないと考えておられる方は多いと思いますが、他の生き物や環境を傷つけないという考えからロハス(地球環境保護と健康を重視する生活)やヴィーガンニズム(人間が動物を搾取することなく生きるべきであるという主義)を実践されてる方もいらっしゃいます。
今の生活の中でゆるくできることだけの方から仕事や住む場所も変えて取り組む方もいて捉え方、考え方は千差万別でその多様性も世界を豊かにする大切な要素ですから、正しいのか間違っているのか問う事ではなく人生を明るく生きる、幸せを感じるにはどう捉えて考え行動するのかを皆さんそれぞれが見つけるひとつのお題と思って「アヒンサー」をついて考えてみましょう。
私の感じたこと、考えたことを書きます。「自分の体をいじめない」これが私がおもう自分自身に対しての「アヒンサー」かなぁーと思います。わかりやすいところでいうと自分への暴力って例えば
- 暴飲暴食で身体に負担をけている
- 仕事を優先しすぎる
- カラダを動かさない
- 寒いのに我慢するとか(ファッションのために薄着)
私自身、運動嫌いでできれば楽したいと言って長年過ごしてきました。一見すると我慢しない、無理をしないってことは自分に優しいようにも見えますが私たち人間(動物)は生きていくために動くようにプログラムされている生き物です。 食べるために食物を探したり育てたり…新しい土地を求めて何時間も歩いたりと生きていくためには動かなければなりません。動けないということは何を意味するか分かると思いますが、当たり前のことにはなかなか気づけないものです。
便利な今の生活はめっちゃくちゃありがたいんだけど…体に対してはちょっと残念、私たちの多くが運動不足でカラダの機能低下に繋がっているじゃないかと。
美味しい食事も便利な暮らしもありがたく恩恵を受けつつ、カラダの機能が低下しないために運動は必須!
運動を怠ることは「アヒンサー」、運動をやりすぎことや負荷かけすぎることも「アヒンサー」
そこでマットの上でまずはカラダの声を聞く(感覚をみる)やりすぎてないのか、必要な動きなのか…ストイックになりすぎず怠けすぎず良い塩梅を探るのがプラクティスになると思うのです。
そうやって繊細になることで体の感覚はより良くなって、「ちょっとやりすぎかな?」「こわばりがつよいな」なんてことが早く気づける。「痛みが出た」「無理な動きをしてケガをした」ってなる前に気づける瞬間があれば不調を軽く留めたり回避することも可能になります。
なので、マットの上でヨガ を継続して行っていくことは「アヒンサー」の実践だと思うんです。
「サティヤ」のついて
「サティヤ」は日本語では正直と訳されています。「嘘をつかない、守ればその人の発言が真実になる」と書かれています。
アヒムサー同様当たり前といえば当たり前ですが…正直であることで人を傷つけてしまうようこともあるかもしれませんし「嘘も方便」という言葉もありますが、あとから知ることでさらに傷つけてしまう可能性もあります。
ばれなかったとしても、嘘をついた事を自分自身は知っていて心が「もやっ」として気持ちの良いものではありません。言わなくていいことはだまっておくということで嘘でつかなくてすむ場合もありますしね。
情報過多のこの時代、知らない間に嘘をついてる可能性もあります。誰かから聞いた情報を何となく他の人に話す
あとから間違えだったなんてことも。
もし必要な場面があるとすればどうすることがいいのか…
真実を語るためにも自分の体験から得られることを話すことが大切なのかな…
私の中ではまだまだ考えがうまくまとまらないテーマです。
もうひとつ自分のカラダや心の声に対して嘘をつく、よく思われたくて無理をする、裏をかえすと自分のほんとの気持ちを伝えたりやりたい事をすると怒られる嫌われるなどの心理が働く、そのストレスからカラダや心の不調にはじめて気がつくってこともあるかもしれません。
日々の中でちょっぴり時間に余裕をつくってあげると、カラダや心の声が聞こえやすくなるかもそしてその声にしたがってあげるの「サティヤ」かも知れません。
「アスティーヤ」について
日本語では不盗と訳されます。「不盗に徹した者のところには、あらゆる富が集まる」と書かれています。物、お金など盗まないのはだれもがやってはいけないことだと思ってると思います。もう一歩踏み込んで時間や情報など目に見えないものはどうでしょう?
遅刻、これは相手の時間を奪う行為です。やむを得ない事情やうっかりなんてことも今まであったと思います。時間や情報、アイディアなどちょっとくらいとか何の気なしに奪っちゃってることがあるかもしれませんね。
「アパリグラハ」について
スートラの順番と入れ替わりますが先にご紹介しますね
日本語では不貪と訳されます。スートラには「不貪が揺るぎないものになったとき、自らの性の原因と様態が余すことなく照らし出される」と書かれています。貪る(むさぼる)意味を調べてみると欲深く望む、飽くことなくほしがるなど「アスティーヤ」につながる部分もあるかな思い先に紹介しました。
子供の頃いとこ同士でお菓子をもらうのに我先にとほしがると祖母に「欲するむしはまたからさける」とよく言われました。誰に聞いても言われてことないみたいですが、その後に口裂け女の流行!?ともに私をびびらせていて欲深くなってはいけないって思ってました。「アパリグラハ」は私の中で「欲するむしはまたからさける」を思い出す言葉になってます。
余談はこのくらいでシンプルに必要以上に手にしない。ほかの人の持ち物、才能に目を向けすぎ奪おうとしたり嫉妬したりしても心穏やかには過ごせませんよね、あるものに意識を向けるシンプルだけど物も情報もあふれている時代だからこそ意識しておくことかもしれませんね。
「ブランマチャリア」について
日本語では禁欲と訳されます。「禁欲に徹する者は、精力を得る」と書かれています。ブランマチャリアについてスートラの直訳では、修行して悟りを得ようとしてる人に対して書かれてる部分が大きいように感じますが今の私たちに当てはめるとすれば自分自身の欲のために無駄にエネルギーを使いすぎないと考えてみては思います。「欲」についてはスートラの違う章で詳しく書かれていますのでまた機会にご紹介しますね。
そのうち「ニヤマについて」書きたいと思います。